3年前の朝、私は二日酔いで目を覚ましました。
1995年1月17日午前5時47分、阪神・淡路大震災が発生したのです。
テレビをつけると地震情報が流れていましたが、まだ詳しい状況は伝わっていませんでした。当時の村山首相の対応もどこかのんびりしていて、記者から「現地に行かなくてもいいのか」と問われても「まず国土庁長官が行ってから」と形式にこだわっていたのを覚えています。午前8時ごろになっても官邸には十分な情報が届いていなかったほどでした。
死者数は最初は数人、次に十人単位、さらに数十人、そして百人を超えたあたりでようやく「大変なことが起きている」と誰もが気づいたのです。私自身もそうでしたが、村山首相もようやく目が覚めたという印象でした。
後から知ったことですが、自衛隊はすぐ近くで待機していたにもかかわらず、出動命令が下りたのは数時間後。法律上、地方自治体の首長からの要請がなければ出動できなかったのです。この時の教訓から、後に制度は改正されました。
実際に要請が行われたのは夕方近くでした。もしすぐに出動していたら、どれだけの命が助かったのだろうかと、今でも考えてしまいます。
その日の夜、ニュースステーションでは久米宏さんがボランティアを呼びかけていました。あの日は本当に長い一日で、その後も毎日が長く感じられる一年でした。1995年は、人の情けや行動、そして価値観が大きく変わった年でもありました。
大阪府知事が「なんでも大阪に頼られても……」と発言したことも覚えています。その後ノックさんが出馬を決意したのは、この言葉も影響していたのではないかと思います。
人の心の光と影
震災直後、神戸のラーメン屋さんが無料でラーメンを提供していた話があります。取材していた北野誠さんが「自分は困っていないから」とお金を払おうとしたものの、店主が強く断ったというエピソードです。次に神戸を訪れた際には、その店を探して食べてみたいと思いました。
一方で、あるコンビニでは水や食べ物を法外な値段で売っていたという話もあります。その後も悪徳リフォーム業者や、東京から宝石窃盗団が神戸に入り込み逮捕される事件も起きました。
人の善意と悪意、どちらも鮮明に表れた出来事でもあったのです。