先日の 和ら会特別講演で戸ヶ崎正男先生の藤木俊郎論を聞きながら学生時代の経穴概論を思い出していた。
主治症が羅列されていて初めて見たときは呆然とした
どうやってこれを覚えるのかと。しかも主治症もバラバラ。卒業しても呆然としてきた。
臨床に入りいろいろ経験してくると、その症状が出た時にその場所に反応が出ることが過去にあったんだろうなということは、想像することができた。
手技もそうだ。何でこんなに技(大した数ではないが)があるのかと思いながら、しばらくはパターンでやっていたがらパターンに当てはまらない人が意外といることに、やっと感触が手に出来てきた時に気がつくことができた。
按摩に車手という曲手と呼ばれる技があって現場で使っていた人を数人しか見たことがなかったのもあって、知識にしかなってなかった。中国の病院に研修する機会があり車手のようなの日常的に使っているのを見て場にあった手技なんだなと、やっと気がついた。
途中まで舟を漕いでいたが段々と単語が耳に入るようになり覚醒してきた。
次回は所生病、是動病に切り込むそうだ。
楽しみ。
途中出ててきた、帰化人、丹波頼康の子孫は丹波哲郎。テレビで新宿の土地をかなり持っていたが、小田急に売ってやってと話していた。ホラ話だと思っていたが、近しい人に聞いたらホントらしい。
丹波さんの息子が、あなたの夢叶えますというのがあり「お父さんと1回も食事をしたことがないのでしてみたい」というのがあった。家風として子供とは食卓を一緒にしないらしい。金出すから皆んなでいけと食べてこいというも孫のお祖父ちゃんと食べたーいの一言で息子の夢叶う。
隠れた天才だから
40代で亡くなった。
経穴の問題。
黄帝三部経と言われた西晋の皇甫謐「黄帝三部鍼灸甲乙経」
3世紀に出された一番古いとされている黄帝明堂経から研究しないと意味がないと提言した先生。
ないまま臨床研究しても意味がない。
ツボの主治証を基本に帰って研究し直せ。
これが結論。
鍼灸界で一番マトモな先生が、藤木俊朗先生。
その先生の希望を捉えて理論展開。
藤木俊朗先生の臨床の整理の概要
これからやらなくてはいけないことは、
ツボとは何か?
ツボとの経絡との関係
ツボとの経穴との関係
経穴はどのような症状に効くか
学問的に積み重なっていないのが現状
文献研究されていない。
ツボの名称さえも云われさえも学校で教えていない。
根本が
経穴学の本を、素問と霊枢のときにあった本の考察を基本にした上で、 それをもとに経穴学を作り直さないと
例えば腰痛症に出る頻度が多いのは足の三里
足の三里で腰痛が治るか?
昔からある仔引き孫引きしているとこうなる。
これじゃ話にならない
日本の場合、特に整理にされていない。
藤木俊朗に興味を持っった中国の先生がいた。
ほうりゅうしょう先生 、たんげんすい先生
日本で研究している先生としては 桑原陽二先生 金古英俊先生
明堂経をいろんな文献から集めて形にした先生がいる。もっと前に小曽戸丈夫先生 小曽戸丈夫先生は明堂経の研究をしていた。
藤木俊郎先生の本は二冊ある。
作業仮説といったのは実証されているわけではない。
藤木俊朗先生の最初にやろうとしたのは、ツボの主治証の出発点を見極なければいけないというのが結論
そのためには、どうするか。
それから付随する内容がいくつか出てくる。
まずは、霊枢の経脈病症
是動病 所生病の出来た経絡病証の発展はどうなのか。
歴史的に観ると全く発展していない。
霊枢以降は病症論は発展していないじゃないかという思われるような状況
どういう形で追求させているのかと説明されているのがこの本(藤木俊朗氏の本)
まずは経絡治療が構築した人は経絡治療家だったわけです。
経絡治療が問われて1970年代の時点で40年
その頃に経絡の変動が如何なる症状を呈するか
その頃に原点批判があまりにも進んでいなかった
漢方概論の是動病、所生病の経絡病証を全く追求していない、是動病は何か、所生病は何か決定的な意見はない。
未だに錯綜としている。
故に霊枢の病証の追求は黄帝明堂経にまとめられるツボの主治証を追求しなければならない。
黄帝明堂経の中に鍼灸甲乙経の中に どういう文章が入っているかと言うと参考にした参考書は明堂孔穴鍼灸治要を参考にしてやっている。
「古いと考えられる文献では経脈の変動がある一定のを病症を示す記録されていたが、新しくなるにつれて、この件に見られる様に治療対象として経脈が強調されるようになる」
素問の病始論篇
病症は治療穴と直結し病症は反転してその後の主治証として考えられるようになる。
なぜ黄帝明堂経を研究する必要があるのか。
戸ヶ崎の解釈は霊枢より古い素問の中にそのヒントを見出した。
病証を記載した後に治療の場所や経穴が、支持されるようになったということから、病証は治療穴と直結してきた。
最初病証論なんです。
病証は、ある病気の症状は、どういう症状が出てきて、それが診断の手段の一つになる。
更には治療が乗っているパターンも有る。
そういうことを前提に頭に置いておく。
そうすると病症を記載した後に 治療の場所や経穴が支持されるようになるのが霊枢にしても素問にしても後なんです。
最初は病症だけあって書かれるパターンが多い。
治療穴まで書かれるには時期がある
ツボを支持するような時期になって、病症は治療穴と直結して、さらに病症は反転してツボの主治症となる
ツボの主治症というのは、症状を一つ一つそのツボで治したというよりも、病症として、複数の症状の 病症論からもとになってツボの主治証となったということを仮説としている。�歯が痛いから合谷をやって治ったということを蓄積したものでは、必ずしもない。
風の病、熱病、上と下の気のバランスが崩れるなどの腰痛熱、病症が出てくる。
その病症にツボが支持されてくる段階がある。ツボが逆転してツボの主治証として並べられている可能性が高い。
1つの仮説としてツボの主治証になった
藤木俊郎先生の厥陰肝経、「中封穴をめぐって」
中封を使うひとつの指示が出てくる。
おしっこが出にくい→痛い→中封を使え
肝経の指示につながる
経脈が先にあると中封だろうが、太衝だろうが、曲泉だろうが肝経の病症に効くという前提が起きる
中封穴という本来主治症がない、病症から求められたということ。
これは大事なこと。→主治症がどういうふうに出来たか。
病症が絡脈が病んだときの病症がある。
その病症が足の膀胱、絡病あったと規定すると
豊隆が絡穴なので絡穴の主治証に反転し収まった
豊隆が絡脈の経病病症を司るというふうになった。
豊隆は効くというふうになった。
だけどこれは理屈。その可能性が高い。
経穴学の定義はどのようにするか。
治療後の発展過程
経絡中心か病症によるか
経絡治療の原点になっている。
経絡の虚実、変動を捉えて補瀉する。
すでに霊枢にあった
霊枢の作者にとっては、非常に有効だった
陽経の実 陰経の虚が同時に現れないと確定できずという弱点があった。
もう一つは病症
二つの道
人迎気口診→小椋道益先生。脈の速さえ決める
藤木先生は→脈の速さではないという
これが弱点
経脈でわからない時は、症状から判断する。
二つの方針が混在している。
病症からやらないといけないパターンと脈診で出来るパターンが2つある
この2つが分かれていくという発想
霊枢以降の鍼灸が選ぶべき2つ道と2つ方針のどちらに重心をおいて鍼灸医学を発展させていくかという観点。
唯物弁証法的発想で物事を展開しているので基本から始め、出発点から枝分かれを整理出来ている人なので。かなり参考になる。
…方針は難経によって薦められたので難経を使って経絡治療が出来た
難経は寸口で脈を診るのが画期的
その前の素問は三分九候
頭から足まで脈を診ていく。厄介。
石坂宗哲は意味があると研究していた
素問は人迎気口の比較脈診、三分九候
難経は寸口で脈を診ることを開発
これを上手く利用したのが経絡治療
経絡治療、全体治療の一つのシステムが構築される過程があった
陰陽の失調を正す、伝統医学にとって非常に大事なもの
これを推進したのが、霊枢から難経の作者だった
これを最終的に戦前の経絡治療家が踏襲した。
もう一つは、病症を展開していく。
「症状から判断して治療するという方向には、難経が示したような華やかな飛躍はありえない。 そこには観察と経験の蓄積以外に発展は無い。しかしそれはかなり急速に行われたか、もしくは霊枢には記載されていないが、かなりの量の蓄積があったのか、時代的にはかなり早くまとめられた。この経験の蓄積をツボの主治症を中心に、まとめられたものが明堂と言う名を冠して出現する。」
素問霊枢に書かれまとめられるもっと前は、ツボ単位で 主治症を研究していた時期があるだろう。
例えば歯が痛いときに歯ばかりではなく、うずいたりする。
例えばそれが合谷だったり、名前がなくても。そこをやっていたら楽になるという蓄積がすでに前提としてあったのではないか。
成文が出されたのが素問であり霊枢
感覚的な発展が、まずあった。
感覚的な発展を前提として臨床で理論構築
ほとんどは学問的な成分
経穴の主治症は、素問や霊枢、その他古代の医学書の病症から出てきたものを基礎とし、霊枢経脈編以降は臨床実践で得た経験を元に効果のある病症と経験を結びつけて蓄積されていったと考えられる。
素問、霊枢の時代の病症を下にしてツボの主治症が出てきた。
それを土台にして、経験を下にして効果を継承していたのではないか。
これが結論
まず大事がものが医心方、大宝律令のときから鍼の学生が教科書として使っていた。
医心方の第二巻にある経穴は明堂経の写し
丹波康頼は帰化人
医心方が面白いのは鍼の診察、診断、治療から入っている。
丹波康頼は鍼医
それだけ自信があった。
甲乙経、千金要方、外台秘要、など参考にしている。
明堂経の原文に近いのは医心方、甲乙経、外台秘要
全部集めてこいという。
これを作った人がいる。
経穴の位置と帰属
霊枢経脈編の経穴の並べ方、太陰肺経は、10穴とか11穴
原書は雲門が抜けている
三陰交が内課の上三寸、原書は八寸
三陰交の場所にが交わるか?「肝」「脾」「腎」
八寸のところで初めて交わる。原書はそうなる。
当たり前が当たり前でなく経脈の関係をきちんと整理しないとまずい。
元々の伝承はどうなっていたのか
仮説になるが
明堂経がどういう形式を持っているか。
明堂経としての体裁
経穴学としての体裁
1.経穴の位置
2.帰属する経脈
3.刺鍼の深さ
4.灸の壮数
5.主治症
ツボの順序が経絡順にできている。
足の太陰肺経(? ママ)から順番に書かれている。
という形式
この形式が何故崩されたか?大事なポイント
臨床の現場で使いこなせないから
本草学をいくら学んでも、この病気に、頭痛どの薬物がいっぱいあり出てこない。
本草学は主治症が羅列されている。
傷寒論や金匱要略みたいな形式で症候群に対して症候が出てくるような形式が不足している。
なのでどんどん明堂教が崩されていった。結果的にズタズタにされ、原型がなくなる。
経脈別に並んでいないような形式になった。
霊枢の経脈編にあるような経脈にツボの乗りかたが、実は元々の形式とは違ってしまった。
体の部分 平行線で描いてあるから経脈線に近いけど平行線なので、中府、雲門は、あの当時は奇経のライン、
奇経か別のところに入ることが出てきた。移動があった。
結論
藤木俊郎先生がやらんとしたことは、
「 私にとって明堂経を復原することは、いつかしなければならない仕事のような感じになっている。明堂経の内容は甲乙、医心方、千金、外台の中に存在しているから、何もつなぎ合わせてもそれほどの意味がないように見えるかもしれない。しかし、穴の主治症というものが、最初はどう考えられていたか整理する必要がある。 今までの鍼灸の文献は、その前の本を引き移した部分と著者が新しく加えた部分がはっきりしない。またある穴がある症状に効くと言われていても、それがいつ頃から文献に乗ったのかはっきりしない。そのためには明堂経を整理しておくことが重要になる。そのような準備作業もしないでおいたら 推計学的にあるツボはある症状に効くとか効かないとかいう試験をするのは非常に無駄な手間をかけるだけだろう。」
仔引き孫引き
本草学だと自分の考え方と意見を分けて書いている。
鍼灸書にはそれがなかった。
仔引き孫引きでは分からない。三里で腰痛が効いちゃった話になる
一生懸命、昔の文献を集めて、足し算して ではなく現象、原点から入らなきゃ拙いよ
そのためには、明堂経を整理しておくことが重要。
曲池が子宮の病気に効くというのがあるが、主治症にある。
そんなの10人いて、何人に効くか、100人いて何人に効くか千人いて何人に効くか
そういう処理ができてない。
経験があったくらい。そういう意味でちゃんと主治症がより効果が出る可能性ある整理をしたうえで継承しなきゃいけない。
未だに出来ていない。「それがまず手間を掛ける」
「明堂経を整理して、初めて、次の時代の銅人経や、その後の鍼灸大成などの主治症の分析もできるようになる。」
銅人経までかなり時期がある。外台秘要だと900年くらい。その間にカッパクジンが十四経発揮を出してくる。
日本で面白いのは鍼灸の本で参考にするのは十四経発揮
整理がされないうちに、進めては拙いんじゃない。
結論
これだけのことを藤木さんはやった。
経穴の主治症を研究する
霊枢の経脈病症完成以降の病症主治について整理
治療法の発展過程 経穴中心か病症かというのも整理する。
明堂経による経穴学と破綻
経穴の位置とその帰属
とりあえず整理する
経穴の名称と意味
経穴をどう定義したら臨床に役立つか。整理されていない。
次の課題
古代経穴学の活用 黄帝明堂経の現代語訳 | 桑原 陽二
これを参考にすると、もっと深まるか。